昭和47年12月15日 朝の御理解



 御神訓一、「神徳を受けよ、人徳を得よ。
    一、「生きたくば神徳を積みて長生きせよ。とあります。」

 どうして「神徳を受けよ、人徳を得よ」でなからなければいけないか。世間には非常に人徳を持った人があります。所謂人物と人間が出来ておると言われる様な人達の所には、やはり人徳が集まります。けれども人徳を受けただけで、人間が幸せと云う訳ではありません。そういう人徳を受ける程しの人であるから、一生を貧乏で過ごすという人が沢山あります。いわゆる精神に甘んじて、清い貧乏に甘んじて一生を過ごすという人達は、ような場合に人徳はあるけれども、所謂幸せではない。
 家庭的に幸せではない。又財の面に恵まれると云う事ではない。どうでもその神徳を受け。そして後に人徳がそれに付いて来るというおかげを受けなければ、そりゃ人間の幸せはないと。生まれ付きどんな人物の良い人であっても、だからおかげを受けると決まっていない。それではなくても、それとは反対の、人柄も悪い。人物も良くない。そういう人でも信心をさせて頂いて、改まる事を、又は磨く事を体得させてもろうて、そしてご神徳を受けますと、そのご神徳に人が付いて来る。人の信用が付いて来る。ね、
 ですから、是はもう人間の誰しもが、誰しもが是は求められておる、神様の願いだと思いますね。所が先日も、久富正儀さんが丁度、あの日、何か此処で会合があってました時に、非常に小学校の時からお世話になった先生。中々人物が素晴らしい。まぁと思うて、子供ながら敬服しておる。だから今でもそのお付き合いを段々させて頂いておるが、もうその先生が非常に不幸せである。
 第一目が見えなくなってしまわれた。それで盲らながらもその、菊作りを初めてまぁ楽しい、余生をまぁ楽しんでおられた所が、最近はラジオだけを聞けるもんですから、ラジオを聞きながら株に手を出された。そして株ですってんてんに盗られてしまって、もう実も見るも、哀れな状態になられた。先日も危篤状態にある、此処に御用で来ておりました時に、家から何回も電話がかかって来た。けれどもね、今日はこりゃ神様の御用出来とるから、あの明日お礼やらせて頂くからと、まぁ申しましたというてから。
 家からの電話は切っておった事で御座いますけれども、その時に正儀さんが話しておりました。成程人物が良いとか、人間が出来御座る、特に学校の先生とかというのはもう、子供の前では立派な、聖人君子の様な生き方をして見せる先生が多いかったですね。昔は。又はあの、そういう生き方が本当だと思って、またそうしておる人達もありいます。けれども、見てご覧なさい、決して幸せじゃないです。
 そういう人達は。ね、いうなら人徳は子供達からでも大変慕われて、けれども、随分学校の時の子供達、あのなにが、その先生先生というて、慕って元気な時には行きよったけれどもね、もう最近では誰も寄り付きません。もう私が時々一人行くだけの事。まぁ病床見舞うと云う訳です。というて正儀さんが言ってましたが、もう最近は私も行くごと無くなりましたち。もう行ったら悔やみ話ばっーかりである。
 だから先生、あの私は信心しよります。合楽の金光様に一遍お導きしますから、一遍参って御覧なさいませんかち。いや、金光様ん事は私は詳しく知っとるちゅうてから、本当に知っとんなさるそうです。だから、知っておるだけではいけん。だからねそういう例えばあの、人物の出来た人なんかはですかえって、ね、信心の事はこうあぁと思う。本当に、それこそ和尚のごたる事を知っておられるです。ね、そしてかえって日参り夜参りしよるもんがおかしゅう位いにしか見えないらしいですね。
 おかしな事ですよね。そしてさぁ、もう人生の、何というですか、終着駅に近づくと云う事になって、あらあらと思うてももう遅いのです。もう実にですね、聞くも哀れな話ですけれども、世の中には沢山あります。今ここにあのお参りしておられます、あのもと竹野の郵便局の、毎日あのお参りになります。その方の伯母さんに当たられる方が私共が、小学校の時に習わせて頂いた学校の先生です。中野先生ちうて有名な先生でした。もうそれこそ人物、もう人柄も本当にあのそりゃ素晴らしい先生でした。
 おそらくあの先生が亡くなられたら、もう長年務めておられるから、草野の町から正徳碑ぐらい出来るだろう。まぁできるならもう立派なもんが出来るだろうと言う位いに、人徳を持った先生でした。所が最近はもう本当にまぁ丁度こちらの時、あの伯母さまに当たりますから、伯母さまじゃない従妹さまにあたるですか。ですから色々お届け聞かせて頂きましたがですね。
 例えば教育が出来ておるとか、人物が素晴らしいぐらいなことでは、本当におかげにならんことが分かりますねという、まだ本当にあの、人のことですからね、あんまりあの申し上げれませんけれども、是はあの椛目の方達からもこの頃その事を聞かせて頂いたけれども。信心しておかげを受けなければならんな。信心して徳を受けなければいけないなぁと思いましたね。だから今皆さん、そういう大事な信心を身に付け様。又身に付けて行っておられるのですから、とてもね。
 ただ目先目先の事どん考えてから信心ではいけんのです。ね、最近では目先目先の事。目先といや本当に、どうぞ健康であります様に。家庭が円満であります様に。どうぞ子孫繁盛家繁盛お願い致しますという、もう切実な願いですから、願っておりますけれども、その例えば裏付けの様にです、なら私共が人を攻めませんとか。ね、大食大食を致しませんとか。昨日はある人が先生この、健康のおかげを願うからには、私は夜更かしをしよりました。だから是からは夜更かしを致しません。
 だから工夫をするといくらもある訳なんです。ね、健康の為にならないものを、平気でやりながら、どうぞ健康のおかげを頂かせて下さいというのでは、問屋がおろさんというのです。ね、気付かせて頂くと、ここんところの誓いというものはまだいくらも出てくるはずです。ね、子孫繁盛家繁盛を願うからには、やはり仕事に忠実でなからなければなりませんし。又は、無駄使いどもしよってどうぞ家繁盛を願った所で、是はおかしな願いになって来る事が分かって来たです皆さん。
 だから目先の事を切実に願っておられると同時に、その裏づけと云う物がです、徳を受ける信心になって来る。それに対してねあの引当の様にする信心が徳を受ける信心です。又はその信心願いの中にあります様に、ね、真実の御用に立ちたい立ちたいという祈り、願いが育って行く事が徳を受ける事なんです。ましてはいうならば、和賀心時代を創るということのために奉仕する。所謂天地金乃神様の願いに答えて立たせて貰うと云う様な殊勝の信心が出来てくるなら、もう絶対お徳は受けるでしょう。ね、
 ですから今の合楽の場合はもうその、素晴らしい事に成って来たんです。是は皆さんの周囲を見て御覧なさい。今その中野先生の場合を申しましたその、正儀さんの小学校の知り合う所の○○先生の話をしましたが。ね、どんなに人物がよかった、行いが良かったというだけではお徳は受けんのです。是は信心をしなければ受けんのです。教祖金光大神のお取次ぎを頂かなければお徳は受けんのです。ね、
 それもただ自分の良かごと願うと云う事だけでは受けんのであって、願っても良いと。切実な願いなら願っても良い。代わりに、神様の気感にかのうた、例えば家庭の円満を願うからには、もう決して人を責める様な神の気感に叶わん心やらはもう出しません、と誓って信心修行するんですから、お徳を受けないはずがないです。ね、そしてその後に是はもういわんでも。此処に神徳を受けよ人徳を受けよと仰る。是はもう自ずと付いて来る物であり得られる物である。
 そういう意味でもどうでも一つ金光様のご信心をね、本当の今合楽で言われておる所の信心を本気で身に付けさえて頂かなければならない。そこで皆さんあの何故神徳を先に受けなければならないかと云う事を分かって頂いたですね。それから、いわゆる「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」とこういう。生きたくばと云う事に、非常にその深さがあると思ですね。いわゆる長生きをすると。
 80までも100までも生きると。それもありましょう。けれども、私は教祖様が仰る生きたくばというのは。神徳を積みてとおおせられとりますから。是は生き通しに生きると云う事なんです。ね、ある時に、教祖様にある人が申し上げた。生神様、金光様あなたは生神のお徳を受けられて、何時いつ迄もお生きになられるでしょうと。どうぞ何時いつ迄も、お生きになって、私共取次ぎ助けて下さいという意味の事をもうした時に、この方とてもね、塩漬けじゃないからと仰ったそうです。
 塩漬けじゃないから。いつまでも生きるわけにはいけない。ね、けれどもね、神徳を積んで、人から拝まれる様になる事が長生きじゃと仰った。神徳を積んで死んだ後でも人から拝まれる様になると云う事が神徳じゃと。ね、是はもう生き通し永世生き通し。ね、成程神徳を積まなければそれは出来ない。私は今朝からこんなお夢を頂いた。私の昔昔というか北京時代に、いわゆる酒屋友達でお付き合い頂いておった、久留米の本町に三根という酒造業をなさっておられる方があります。
 こちらもあちらで焼酎を造っておられましてね。そんな関係でもう大変心良さくして頂いて、もうこちらへ帰らせて頂きましてももう、本当に一遍お金を借りに行った事がありましたが、まとまった金をもう本当にもう、もう本当にあげん気持ち良う、なんか、書いたもんでもと云うても、そげなもんな要りませんというて、貸して下さる程しの、まぁ間柄の付き合いをしておった方です。久留米に三根という酒屋があります。今はその酒造を止めて、その酒の卸をなさっておられます。
 その方がですね、一斗五升入りの金樽。しかもそれには富の寿と書いてある。ね、追分にありますよね。を、お供えに持って来ておられる所を頂きました。三根さん。三根とは三つの根と書いてある。そしてそこにあの、日田の綾部さんがおられますから、もう綾部さんこりゃもう合楽はどげんおかげ頂くじゃい分からんですよというて、その話をその酒屋さんの卸屋である所の、その綾部さんにそれを話しておる所であった。
 三根さんという酒屋さんが、ね、富の寿というお酒が一斗五升入りという、しかも金樽である。私はもう見た事が無いですからね、一斗ここであの、何時もあの大祭に金樽のお供えをしましょう。菊正宗の。あれの大きいやつなんです。はー、もう見事なんです。ちょいと綾部さん見てご覧んなさい。もうこりゃこれからもう合楽がどげんおかげ頂くやら分からんばいといよるとこじゃった。
 次にはね元追分に山口という呉服屋さんがありました。ご兄弟達がここにもずっと参って見えますよね。今でもそんな山口さんという大きな呉服屋さんがですね、もうそれこそ沢山な呉服をです、お供えに持って見えておる所です。でそれを私が田主丸のむつや呉服店の、今の信司郎君にです、ちょいと信ちゃん見てごらん。こげな大変なあの反物を頂いたが、もう是からどれだけおかげ頂くじゃい分からんばい合楽は。とむつや呉服店の今の主人である所の、石井信司郎君に私がそれを話しておる所であった。
 それからもう一つ誰かが分からんけれどもです、何を持って来て御座るか分からんけれどもです、ね、まぁこげなお供えを頂いてから、もう大変な事だというて私が恐縮しておる所。それがその持って来た人も分からなければ、持って来ておる物も分からない。いうならば後で考えた、ははぁ是が無形の物だなぁと思ったです。形のない物。ね、いわゆる無形の財産と云う事を申しますでしょう。それから持って来ておる人も誰か分からん。確かに持って来ておる。誰、分からん。
 それが私は神様だと思うですね。姿形は見えんのですから。いわゆる神様が無形の形の物を持って来て下さっておるというお夢でした。富の寿というのは、いうなら本当に求めて止まないものでしょう。お互いがいよいよ子孫繁盛。家繁盛。人間の幸せにはこの、いわゆる富がいよいよ繁栄していかなければなりません。ね。しかもその一斗五升ということが、どう云う事だろうかと私は思うた。皆さんどう思われますか。
 一斗と云う事は、あの皆さんと云う事だご一統と云う事です。ご一統というでしょうご一統様にね、五升というのはあの世と云う事です。後生を頼むというでしょう。だからこれはどう云う事かというとね、信心してお徳を受けそのお徳をね、子孫にも残し一統様にも残しね、後生にも持って行けれると云う事なんです。意味が解りましたかな。一等と云う事はご一統。ね、是から私の信心に続いて来る皆さん。又は皆さんでいうなら子孫。子孫にも残しておけるもの。
 又はあの世にも持っていけるのは神徳じゃと仰るのはその事だと。反物を沢山持って来ておる。ね、それを私は信司さんに、是から合楽はどがしこおかげ頂くやら分からんばいというておる。何というても衣食住というて、もうお徳のね、衣食住の徳というのは、衣の徳というのは最高。私共が例えばなら、私と家内だけはもう着れ一寸買わないという修行を何十年間してますよね。終戦直後からしてますから。けれどもおかげを頂いて勿体無いような、いうならばねあの頂いておりましょう。
 何十万もする様な着物も着せて頂く程しのおかげを頂いております。誰もくれとも言わなければ頼みもしない。けれども、何とはなしに集まって来る。是は私は、衣の徳を受けておると思うんですね。もう最近家内なんかは、着物だけじゃない、装飾品もそれこそあの指輪なんかでも、それこそもう大変な値打ちのある指輪を何本も頂いております。本当に衣の徳の中にあるものです、やはり身に付けるもの。
 そういうおかげの受けられる、例えば、おかげの場が合楽に段々出来て来た。又そういうおかげを皆さんにも受けて頂きたい、というのがこの5年の記念祭を境に、盛んに言われておる。ね、この記念祭を境に、合楽の信心がどう進展するか。その進展以下んによって、もうおかげはここに用意してあると言った様な感じがする。今日はこう云う事を頂いた。聞く耳は肥えた。見る目も出来たと頂いた。聞く耳も肥えた。ね。
 耳が肥えるというでしょう。皆さんが毎朝毎朝何十年間こうやって御理解を頂いておられますから、聞く耳が肥えて来た。他所あたりで聞かせてもらうともうどんこん、もう親先生の話聞いちから聞かれんと言った様な事を、平気で言う。ただそれは耳が肥えただけである。聞く耳は肥えた。見る目も出来た。例えば反物なんかの見る目というのは、随分やっぱり研究しなければ見る目は出来ません。ほりゃ値打ちもんですよ。先日から頂いとる。ね、反物私だんまだ是はまぁ何じゃろうかとこう思いよった。
 久留米絣のちった良かつかと思いよった。所が先生今これは20万しますよちいうて、文男先生がいう。ね、見る目がないと、久留米絣ぐらいしか見とらん。ね、文男先生は見る目があるから、これは20万もする値打ちのあるものだと云う事が解るのです。というてならその、分かっただけでは詰まらんでしょう。呉服屋に行ってから、是は素晴らしい値打ちのあるものだと云う事が分かっただけでは。
 それを身に付けさせて頂ける様にならなければだめでしょう。だから皆さんの信心はです、いうなら聞く耳は出来聞く耳は肥えて来た。耳はもう出来て来ただけではなくて所謂肥えた耳がです耳だけ肥えるのではなくて、体全体が肥えるだけのもの。見る目だけではなくて、それを身に付けさせて頂ける程しのおかげを頂いてくれよと、神様が願うように、最近言っておられる事がです、私は今の五つの願いの事だと思う。
 昨日・一昨日が13日会でした。福岡から今毎朝朝のご祈念に参ってみえます、食堂をなさっておられる。西なんとかやて次八さん。西何とかいいましたね。ちょっと忘れました。西何とかという、名字は西、西何とかいいました。え西原さん。西原次八さんていうんです。西は西です。原は、あの野原の原。次は次ぐという字が書いてある。八という字はこの数字、この八という字ですね。
 が13日会の、それこそ、神の願いが成就する日といわれる日に、お寿司のお供えを沢山なさった。その日一日、お売りになるだけのものが、作ってあったけれども、13日会にお招きを頂きてから、一緒にお参りした。ならこのお店の是がいわゆる、「ねまっちゃならんから」なら皆さんに頂いて頂だこうというて、皆さんに、お茶の時に出しましたのがそうでした。
 どう云う事と思いますか。西脇殿が出来た。ね、西脇殿が出来た。5年祭を境に、ね、それを境にです、ね、もうそれこそ八の字です。もう広がりに広がるおかげが合楽では受けられるぞと云う事なの。しかも、寿司と云う事は寿を司ると書いてある。ね、いうならば、その寿が儘になるというおかげを神様が西原次八さんの、あのお供えから皆さんにもうかんで含める様にいうて聞かせなさったのと同じ事ですよ。だからあれを食べただけ、ならあれを食べたけんおかげ頂くちゅう事じゃないです。
 お互いが本当に、神様が下さろうというのであるから、頂こうという姿勢を創らなければだめなんです。ね、今日私がお夢を頂いておる、いわゆる金樽の一斗五升のお酒といい、それこそ沢山な反物といい、ね、しかもあの世にも持っていけ、この世にも残しておける、いわゆる神徳を受ける事によって人徳は付いて来る物であり、生きたくば神徳を積みて長生きをせよ。と云う事は、ね、神徳を受ける事によって、生き通しに生きる事が出来るんだと。ね、と云う事が言える訳です。
 そこで私共が信心の一つの基盤と言った様な物がです、本気で例えばここ20年間、仕分けって頂いて来た訳です。ね、いよいよ御事柄を大事にさせてもらい、成り行きを大事にさせてもろうて、ね、そしていうならおかげの天地の通り、天地のご恩徳と云う事は、もうそれこそ、もう限りなく聞かせて頂いておかげで分かった。いうならば聞く耳は肥えた。ね、そして信心の例えば、ね、真の信心と、真の信心でない見極めぐらいはすぐ出来る様に、見る目も肥えて来た。見る目も出来て来た。
 だからそれがいよいよ身に付く事の為にです、この記念祭を境に、一斗五升の金樽が頂ける程しの、ね、あの世にも持っていけ、この世にも残して置けれる程しの、お徳を受ける事に、一つ精進させてもらわなければならない。ね、それが私共の願いである所の、切実な願い。いうなら五つの願い。その五つの願いに、その条件の様に付けられておる所の私は信心修行をさせて頂くならば。
 先日からも頂きます様に、ね、例えば家業の行。ね、此方の行は火や水の行じゃない。家業の行と仰る。家業の行又は、表行よりを心行をせよと仰る、その心でのする、修行というのは、ね、例えば卸と小売ほどに違うと頂きましたでしょう。ね、参った、拝んだ、あー、断食をしたというなのが1ぐらいの値打ちしかないならです、ね、心行を持ってする事。家業の行を持って行とする事は、10をの値打ちがあるんだと。卸と小売ほどに違うんだという御理解を頂いたでしょう。
 だからその行がいけないのじゃない。表行やらね火や水の行がいけないというのじゃないけれどもそれもさせて頂くならです、心行も家業の行もさせてもらうその心行がです、人を責めないと云う事なんかは素晴らしい心行なんですね、又は家業に忠実にならせてもらいます。家繁盛を願う時に皆さんが誓っておられるでしょう。この家業をと云う事なんかはもう素晴らしい値打ちのある行なんです。家業に忠実になると云う事はね。
 そういう例えば素晴らしい、いうならばね、聞く耳が肥えただけではない、見る目が出来ただけではないそれが、共に伴って行く。先日から此処ん所を、頭の長い福禄寿とか、おなかの大きい布袋和尚という、この二つが一緒に出来て行く時です、ね、お徳を受けて行くと云う事。ね、いわゆるおかげと徳が一緒に頂けていけれる私共は、信心の軌道にのったという感じがするのです。
 だからその軌道を歩かずしておいて、おかげの頂けると云う事はありません。どんなに合楽に、例えばね、富の寿と云う事は、お互いが願って止まないおかげの事でしょうけれども、そういう金樽的な、ここに徳が力が出来たというても、それを頂こうという姿勢を作らなければだめです。又私は、あの今朝頂いたお夢の中にですね、もうこげな山の頂上に、こげな道があったじゃろうか。それも登れ様とも思われない所に、自動車で行けば何処迄も、何処迄も登れるという、そのお夢を頂いたんです。
 しかもその道の横所どころに、所々その家がある訳です。その道が悪いもんですから、まぁ山の上であんな、あぁいう風な道はないですけれども、まぁそこが、あの御理解だと思うんですけれども。道に水が溜まっている訳ですね。だからあの道の悪い所に自動車がバーと走りますとあの、とばしるが掛かりましょう。それがね飛ばしりがパ―とその横にある家に掛かって行く訳なんです。私はこれを頂いて、昨日の御理解に人間と身代と達者という、あの人間と云う事に付いてですね。
 あの人に迷惑を掛けないと云う事を申しましたでしょう。だから私共が平気で自動車でバーといってゴミを人にかぶせたり。又はとばしるを跳ねかけて、平気でおると言った様な事ではいけない訳です。ね、ですからあんたその、そして家があってから、飛ばしりが付くと、ちょっと先の方に止めてから、その家から雑巾と水、がバケツを買ってから、一生懸命綺麗に、どうもすいませんでしたというてから、私は綺麗に拭いて、又自動車にのって、又行くと云う様な所を頂いたんです。ね、
 例えば今日の御理解の、を皆さんが頂いて下さってです、そういう素晴らしい道を歩かせて頂きながらもです、その道を歩きながら、人に迷惑をかける様な事が、是はもう掛けまいと思うとっても、掛ける様な事になって来るから。そこを反省しながら、そこは一々断りをいうてお詫びをさせてもろうて、そこをつぎのうて行くと云う様、程しのね、行き届いた信心をさせて頂くと云う事だと思わせてもらいました。ね、そういう信心が出来る限りです、神徳はもういやがうえにも頂けて行くでしょう。ね。
 それこそ西原次八さんと云う事になるのです。ね。いわゆる寿司がままになる。寿司をまま、寿司、寿司によって腹一杯と云う事。いやままになる。ね、寿を司る所の元というか、原動力というか、ね、おかげを司る所の原動力と云う物がです、ね、今合楽で仕切りに解かれておる所の、ものなのですから。本気でその事の、信心に取り組ませて頂かなければならんと思います。ね、神徳を受けよ。人徳を得よ。ね、村内でも、あの人は人徳家と言われる様な人が、必ずしも幸せではない。ね。
 ですから、私共人徳はなくても、神徳を頂く事に精進すりゃ、人徳はいやでも付いて来るんだ。生きたくば神徳を積みて長生きをせよ。と云う事をです、例えば是は生きたくばと云う事は永世生き通しという意味のことだ。という風に聞いてもらわんと。ね、だから神徳を積んで、長生きをせよと云う事は、神徳を積んでね、それこそ是は長生きというだけの事じゃなくて、神徳を積みて人間の幸せの条件であるすべてのものを頂かせてもらえれるおかげを受けよと云う事だと。言う風に聞いて頂いたですね。
   どうぞ。